TPP交渉の結果、「吾輩は猫である」がタダで読めなくなる?

相談者Y.Oさん

 「まるでゴミ屋敷だね」と彼女はあきれ、それっきり会ってくれなくなりました。デートして3回目、「あなたの部屋が見たい」と彼女が言うので、喜び勇んで、寝るだけのワンルームマンションに招いたのでした。

 彼女も驚いたことでしょう。活字中毒の私の部屋は、万年床のベッドの周り以外は、高層ビル状態で本が積んだままになっているか、倒壊した“ビル”の残骸が散らばり、避けて歩くのがやっとの状態でした。部屋の中には、かび臭さが漂っています。

 悲惨な経験から立ち直ろうと最近話題の電子書籍リーダーを購入しました。電子書籍なら中身のデータを入れ替えるだけなので、場所をとらないだろうと思ったからです。これなら新しく彼女ができても、部屋に招くことができます。「本は手触りが大事」と思いこんでいた私にとって、一大決心でした。

 実際に使ってみて「これは便利だ」と思いました。今までは、旅に出るとき、「何冊も本を持って行くのが面倒だなあ」と思っていました。ところが、電子書籍リーダーは、興味のある本を好きなだけダウンロードして、保存しておくだけです。場所もとらず、重くもなく、いつでもポケットから出して読めます。

 さらに驚いたのが、名著をタダで読めることでした。スタジオジブリの映画で今話題になっている堀辰雄の「風立ちぬ」が無料で読めました。他にも「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「ヴィヨンの妻」「人間失格」「蟹工船」「舞姫」「杜子春」「羅生門」「銀河鉄道の夜」……と、青春時代に読んだことのある名著が全て無料になっています。最近では、これら無料の本を次々にダウンロードして、休日などに読み返しています。

 ただ、最近、新聞で気になる記事を目にしました。日本がTPP交渉に参加した結果、これらの名著がタダで読めなくなるかも知れないというのです。TPPというと、農産品にかかっている関税がなくなって、日本の農業が打撃を受けるということから農業団体が反対しているのは知っていましたが、まさか、書籍にまで影響するとは思いませんでした。

 そこで、今、電子書籍でなぜ古典がタダで読めるのか、またTPPがどう関わってくるのかを教えていただけますでしょうか。(最近の事例をもとに創作したフィクションです)

回答



青空文庫呼びかけ人の死

 「青空文庫」の呼びかけの一人である富田倫生氏が8月16日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りしたいと思います。

 青空文庫とは、日本国内において著作権が消滅した文学作品などを収集・公開している、利用に対価を求めないインターネット上の電子図書館のことです。ボランティアが作品をテキストデータにし、既に約1万2000もの作品が収録されています。利用に対価を求めないことから、大手電子書店の多くが、そのデータを基にして無料の電子書籍として活用しています。ご相談者が最近、次々にダウンロードして読んでいるという作品の多くは、この青空文庫から来たものなのです。

 青空文庫の設立は1997年に遡りますが、その設立の趣旨が、「青空文庫の提案」として、次のように、サイトに掲示されています。

 「電子出版という新しい手立てを友として、私たちは〈青空の本〉を作ろうと思います。青空の本を集めた、〈青空文庫〉を育てようと考えています。青空の本は、読む人にお金や資格を求めません。いつも空にいて、そこであなたの視線を待っています。誰も拒まない、穏やかでそれでいて豊かな本の数々を、私たちは青空文庫に集めたいと思うのです。先人たちが積み上げてきたたくさんの作品のうち、著作権の保護期間を過ぎたものは、自由に複製を作れます。私たち自身が本にして、断りなく配れます。一定の年限を過ぎた作品は、心の糧として分かち合えるのです。」

 その青空文庫が、ご相談者も指摘するように、日本のTPP交渉参加によって、まさに危機に直面しています。

死後50年は著作権による保護

 小説、音楽、美術、映画、コンピュータプログラム等は、著作権によって保護されています。私たちは、著作権者に許諾を得ることなく、勝手に小説等の著作物を利用することはできないわけです。

 ただ、著作権は無期限に保護されるわけではなく、著作権法第51条で、著作権の存続期間は、著作物の創作の時に始まり、原則として、著作者の死後(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者の死後)50年を経過するまでの間存続すると規定されています。これは、著作権者に一定期間利益を確保させた後は、文化的な所産としての著作物の利用を広く社会に開放して文化の発展に寄与すべきであるとの観点から規定されたものです。

 著作権の保護期間が経過した著作物は、「パブリックドメイン(公共財産)」として、著作権の保護対象とならないため、著作権の使用料を支払う必要がなく、自由に使えることとなるわけです。

 なお、著作者の死後50年を計算するにあたっては、著作者の死亡年月日の満50年目の日を終期とするのではなく、著作者の死亡した日の属する年の翌年1月1日から計算することとなります。1962年に死亡した柳田國男、吉川英治、室生犀星らの小説等は昨年12月31日で著作権の保護期間が切れ、今年から自由に使えるようになりました。柳田國男の「遠野物語」、吉川英治の「宮本武蔵」「鳴門秘帖」「三国志」、室生犀星の「愛の詩集」「幼年時代」等が今年から使用料を支払うことなく、自由に使用できるようになったのです。

 今後、2015年には尾崎士郎、2016年には江戸川乱歩や谷崎潤一郎、2018年には山本周五郎、2021年には三島由紀夫らの有名作家の作品が、著作権の保護期間が切れて、自由に使用できるようになる予定となっています。

TPP交渉で70年に延長の可能性も

 しかし、日本が「環太平洋戦略的経済連携協定」(TPP)に参加することになり、その事前協議で、著作権の保護期間を現行の著作者の死後50年から、著作者の死後70年に延長する可能性が出てきています。著作者の死後70年の保護期間を設けている米国が強く延長を求めているためです。7月には、日本が著作権の保護期間を米国に合わせ延長する方針を決めたとの新聞報道につき、甘利経済財政・再生相が「具体的な協議をしたわけでも結論を出したわけでもない」とコメントする一幕もありました。

 仮に、TPP交渉の結果、著作権の保護期間が70年に延長された場合、前述した尾崎士郎、江戸川乱歩、谷崎潤一郎、山本周五郎、三島由紀夫ら有名作家の作品が「青空文庫」に収蔵されなくなる可能性が高くなります。

 また、著作権の保護期間が70年に延長する改正法が施行された場合、遡及して適用されるかも問題とされています。つまり、著作者の死後50年が経過して、既に「青空文庫」に収蔵されている作品についても、著作者の死後70年経過していない場合には、著作権の保護を再び受けるようになるのかという問題です。遡及するとされた場合、1948年に死亡した太宰治や1953年に死亡した堀辰雄らの作品についても著作権が復活することとなるため、「青空文庫」の収蔵数にも大きな影響を与え、電子書籍の普及にも障害となるとも考えられますが、この点については、今後のTPPでの交渉次第であり、いまだ不透明です。

著作権保護期間延長の及ぼす影響

 さらに、著作権保護期間が延長されると、他にも幾つも問題が生じると考えられています。

 1つは、日本が他国、特に米国に支払う著作権使用料が増加すると予想されていることです。現在、日本が米国に支払っている著作権使用料は、米国から受け取っている著作権使用料の4倍から5倍となっています。著作権使用料を支払わなければいけない作品が増加すれば、米国に支払う著作権使用料も増加することとなります。

 2つめは、著作権者の所在が不明の著作物、いわゆる「オーファン・ワークス(「孤児作品」)」の問題です。権利者不明の作品であるからといって自由に使用していいわけではなく、権利関係の確認が必要ですが、保護期間が延長されれば、それだけ調査等に時間がかかることとなると考えられます。多くの人は、突然権利者が現れて高額の賠償請求をされるリスクや、調査の手間を考えると、その手の作品の利用に躊躇ちゅうちょせざるを得なくなります。その結果、現状でさえ、権利者不明の著作物が多数を占めている中で、そういった著作物の保存にも支障が生じることとなり、我々は過去の文化資産を喪失していくことにもなりかねません。

 このような問題が生じるおそれがあることから、今後のTPPでの著作権保護期間延長の議論に注目が集まっているのです。

映画作品にも波及か?

 報道によれば、TPPでの今回の議論は、「映画を除く」著作物の保護期間を問題とするものであり、映画の著作権保護期間の延長に関しては問題とされていないようです。

 映画の著作物の保護期間は、日本では、公表後70年(創作後70年以内に公表されなかったときは創作後70年)とされています(著作権法54条)。なお、2003年までは創作後50年とされていましたが、法改正により70年に延長されました。この法改正の際には、遡及しての法適用がなかったため、1953年までに公表された作品については、著作権使用料を支払うことなく使用することができるとされています(最高裁平成19年12月18日判決)。 

 よく書店などで、昔の名画が1本500円程度で販売されていますが、これは、上記のような事情で著作権使用料を支払わなくてもよいためなのです。

 これに対して、米国における映画の著作物の保護期間は、法人著作物が対象で、公表後95年もしくは創作後120年のうち、保護期間の期限が切れるのが早い方とされています。

 今後、TPPにおいて、映画の保護期間に関しても延長の議論が出てくる可能性もあります。仮に米国と同様に公表後95年とされた場合、1954年に公開の映画の著作権保護期間が切れるのは、30年以上も先になってしまい、著作権使用料を支払わなければならないので、1953年公表の映画のDVDのように廉価で提供することは難しくなると考えられ、その影響は大きいものとなるでしょう。

今後のTPP交渉の行く末に注目を

 冒頭でご紹介した富田倫生氏は、TPP交渉による著作権保護期間の延長について、様々な場面で意見表明をしていました。

 2012年12月のツイッターでは、「知財分野でアメリカは、保護期間の延長を始めとする、日本の著作権制度の根幹に関わる要求を並べている。しかも、社会の成り立ちに幅広い重大な影響を与えるだろうこの交渉は、秘密裏に、政府、外交担当者だけが関与して進められる。」「強化と維持、それぞれのメリットを比べて、それでも延長が選ばれるのなら、もってめいすべしと考えた。そうした大切なテーマが、社会のそこここにあり、攻防が繰り返されてきた。それらをまとめて、秘密の外交交渉の場に移し、最後にふたをあける運びに、強い違和感を覚える。」などと指摘しています。

 我々も、今後のTPP交渉の行方については、報道で頻繁に取りあげられる農作物の関税撤廃問題ばかりに目をとらわれるのではなく、著作権保護期間の行く末についても十分に監視していく必要があると思われます。

 著作権の保護は言うまでもなく極めて重要です。延長で創作意欲が高まる、著作者の妻子とその子(孫)の生存期間まで著作権が存続するようにすべきといった意見にも十分に耳を傾ける必要はあると思います。ただ、著作権の保護が過大なものとなってしまうと、「オーファン・ワークス」問題のように、過去の文化資産を損なう結果を招来する恐れもあるでしょう。前述のように、著作権法が、著作権の存続期間を限定しているのは、文化的な所産としての著作物の利用を広く社会に開放して文化の発展に寄与すべきであるとの観点からなのです。

 保護期間が50年と70年のいずれが良いのかの議論とは別に、私たちも、今回のTPP騒動を契機に、青空文庫の意義や、著作権者の保護と文化の発展との調和の問題をじっくりと考えてみたいものです。 

 最後に、富田倫生氏が、昨年12月に開かれたシンポジウムにおいて、作品が将来にわたって残り、誰かの目と心に触れることこそが、作家にとって重要と語った上で引用した芥川龍之介の文章をご紹介したいと思います。

 「けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当って、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を(原文ママ)」

 

2013年09月11日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

 

 


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