遺言書がないと、遺された妻は亡き夫の兄弟に財産を奪われる?
相談者 MMさん
「イヤな兄弟だから、無理して付き合わなくていいよ」と、結婚式のときに妻につぶやいてから、はや30年がたちました。
以来、2人の兄とは 一度も会っていません。弟も18歳のときに実家を飛び出したきり、行方が分かりません。もはや彼らは「他人」です。私の人生と交わることはない、と思っていました。ところが、遺言状を作っておかないと、私が死んだ後、彼らに妻が苦しめられると聞いたのです…。
58歳の私は、定年まで残すところあと2年。5歳年下の妻と二人で暮らしています。子供はいません。彼女とはこの年になっても恋人同士のような関係で、今の生活に満足しています。
定年後は、会社と再雇用契約を結べば65歳まで働けます。でも、家のローンは完済していますし、わずかな金のために後輩に頭を下げるのも嫌なので、すっぱり辞めるつもりです。妻との海外旅行を、今から心待ちにしているのです。
幸い、老後もなんとか暮らしていけるだけの資産があります。長年暮らしてきた私名義の家と多少の預貯金に加え、2年後には数千万円の退職金が入ってきます。もし私が死んだとしても、この家と年金さえあれば、妻は苦労しないはずです。
新聞で、相続をめぐる子供同士の骨肉の争いのはてに、裁判になったり、ひどい場合は刃傷沙汰になったりする例や事件をたまに目にします。私たちには子供がいないので、そういう事件とは全く無関係なはずでしょうから、遺言書などは特に作っていません。
ただ、ちょっと気になることがあります。兄弟のことです。両親は既に他界しており、私には2人の兄と弟が1人います。兄2人とは折り合いが悪く、幼いころから兄弟
弟は、中学生のころから、授業に出ずに盛り場に入り浸り、髪を染めシンナー遊びを繰り返していました。何度も補導されています。中学を卒業してから、勘当同然で家を出て以来、音信不通になっています。兄弟の誰も、弟がどこで何をしているかを知りません。いや、生死さえも不明なのです。
妻には、兄弟と無理して付き合ってもらいたくはありません。付き合いがなくても特段、困ることもないのです。妻も私の気持ちを知ってか、兄弟のことを話題にしません。
さて、先日、親しい友人と飲んだときに、これまで触れてこなかった兄弟の話をしたところ、「そりゃ大変だ。子供がいない夫婦の場合はきちんと遺言書を作成しておくべきだよ」と助言されました。特に兄弟と折り合いが悪く、しかも1人は行方不明というのなら、絶対に遺言書を作成すべき、と言うのです。それを怠ると「残された奥さんが大変なことになるのは目に見えているじゃないか」と厳しく忠告されました。
子供がいず、財産を相続するのは妻だけなのに、どうして大変なことになるのでしょうか。(最近の事例を参考に創作したフィクションです)
回答
子供がいないことによるリスク
共働きで子供を意識的につくらない、持たない夫婦の生き方が注目を浴び、DINKS (Double Income No Kids)と呼ばれるようになったのはもう随分前のことです。
ご相談者の方は、奥さんが働いていらっしゃるかどうか分かりませんが、子供をつくらず、夫婦がいつまでも恋人同士のような関係であり続けたいという人生観は既に一般的になっていると思います。今や子供に老後の面倒を見てもらうような時代ではなくなりつつありますし、ご相談者が指摘するように、子供がいるが故に、自分が死んだ後に、妻と子供との間や、子供同士の間で、相続問題が発生して家が崩壊するというような悲劇を引き起こすかもしれないと考え始めたら、子供を持つということが、かえってリスクとして認識されつつあるのかもしれません。
さて、ご相談者は、新聞などで、相続をめぐる骨肉の争いの果てに裁判になったり、ひどい場合は刃傷沙汰になったりする事件をご覧になったうえで、ご自身に子供がおらず、自分の財産すべてを奥さんが相続するから何も問題はないとお考えのようです。しかし、それは誤った認識であり、そのまま何もしないで放置すると、奥さんは大変な苦労を強いられることになる可能性が高いのです。
意外かもしれませんが、子供がいない夫婦の場合には、遺言書で、配偶者である妻や夫に対して全ての財産を渡す旨をきちんと定めておかないと、思わぬ相続争いが発生する可能性があるのです。
子供がいなければ、配偶者にすべての相続財産がいくのは当たり前で、手間をかけて遺言書など作る必要などないじゃないか、と思う方も多いかもしれませんが、実は、被相続人(ご相談者のことです)に子供がいない場合には、民法の規定上、遺産を相続できる立場にあるのは、奥さんだけではないのです。
配偶者の兄弟姉妹が財産を相続する!
遺言書がない場合には、法律で定められた遺産を相続できる人(法定相続人)が遺産を取得することになります。
子供がいる夫婦の場合、法定相続人は、被相続人の配偶者と子供になります(民法887条1項、同890条)。つまり、配偶者と子供がいる場合には、その他の親族は、遺産を相続できる立場にはありません。仮に、配偶者が既に亡くなっているなどの理由で存在していない場合であっても、子供がいる場合には、相続人は子供のみとなります。また、子供が先に亡くなっているような場合でも、孫がいれば、孫が相続人になります。これを、子供の相続人としての地位を、孫が代襲するという意味で、代襲相続といいます。つまり、子供や孫などがいる場合は、その者が相続人になるということになります。
しかし、今回のご相談者のように、配偶者だけしかいないという場合、単純に、その配偶者だけが法定相続人になるわけではありません。この場合、法定相続人は、配偶者と被相続人の直系尊属(ご相談者の両親)となり、仮に直系尊属がいない場合は、配偶者と被相続人の兄弟姉妹とされているのです(同法889条1項1号、2号)。
そして、民法は、法定相続人それぞれにつき法定相続分(各相続人が取得すべき相続財産の総額に対する割合)も規定しています。相続人が配偶者と子供の場合は、配偶者が2分の1、子供が2分の1(同法900条1号)、子供が数人いる場合は、その相続分である2分の1をさらに均等に分けることになります。例えば、子供が2人の場合は、それぞれが4分の1(2分の1のさらに2分の1)となります。そして、子供がいない場合で、直系尊属がいる場合は、配偶者が3分の2で、直系尊属が3分の1(同法900条2号)、子供も直系尊属もいない場合で兄弟姉妹がいる場合は、配偶者が4分の3で、兄弟姉妹が4分の1とされています(同法900条3号)。
つまり、今回の場合、ご相談者が遺言書を作成しないまま死亡してしまうと、子供がおらず、ご両親が既に亡くなっていることから、奥さんばかりではなく、兄弟姉妹も法定相続人ということになり、奥さんが4分の3、3人の兄弟が12分の1(4分の1を3人で分けるから)ずつ、法定相続分を有することになってしまいます。また、行方不明の弟がいるとのことですが、仮にその人が既に亡くなっていて子供がいると仮定した場合、その子供たちも相続人となってきます(先ほど出てきた代襲相続です)。例えば弟に子供が3人いて死亡していたと仮定すると、12分の1をさらに3分の1ずつ分けて、弟の子供1人ずつに36分の1の持ち分が相続されます。
ご相談者の財産は、不動産(家)と預貯金(退職金)等の現金が想定されるということになります。これらについて、12分の1ずつ、ご相談者の3人の兄弟が相続するということになり、しかも場合によっては、もっと細かい持ち分の相続人すら現れる可能性があるわけです。
遺された奥さんはどうなるのか
このようなケースの場合、通常は、ご相談者が亡くなった後に、その兄弟が
兄弟にしてみれば、亡くなった兄弟に子供さえ存在していれば相続権はなく遺産を全く取得できなかったわけであり、遺族に対して自分の相続分をよこせと権利主張するのは、世間体からいっても、やはりはばかられるということなのだと思います。
ただ、ご相談者は、3人の兄弟のうち2人の兄との折り合いが悪く、弟に至ってはほぼ絶縁状態とのことですから、そのような解決は期待できそうにありません。自分の兄弟の奥さんといっても、日ごろから親戚としての親しい交流がなければ、血のつながりのない他人と何も変わりませんから、もらえるものは全てもらっておこうという気持ちを持つ人が出てくることはよくある話です(私も、過去にそういった事件を取り扱ったことがありますが、人間の欲深さを思い知らされました)。
つまり、ご相談者の場合、何も対策を講じないでおくと、遺された奥さんが相続を巡って、兄弟と
仮に、兄弟が奥さんに対し、徹底的に法律上の権利を行使することになった場合、奥さんとしては、預貯金の4分の1を兄弟に支払わなければならないばかりか、住んでいる建物の4分の1の共有持ち分を取得されることになってしまいます。もちろん、兄弟の方は、自分が住めない家の共有持ち分など取得しても意味がありませんから、通常は、その持ち分に相当する現金の支払いを求めてくるでしょう。たとえば、その家の実勢価格が4000万円と仮定すれば、その4分の1の1000万円を、奥さんは用意して兄弟に対して支払わなければなりません。そうなると、場合によっては、不動産を売却、換価しなければならない事態に追い込まれる可能性も想定されます。つまり、遺された奥さんは住む家すら失うことになりかねないわけです。
なお、奥さんにしてみれば、自分が長年居住し、たくさんの思い出もある、住み慣れた家を最優先で確保しようと考えて、例えば、兄弟がご相談者名義の預貯金等の現金を相続し、奥さんが家を相続するというような内容の話し合い(遺産分割協議)を進めることもできますが、そこで問題となるのは、行方不明の弟の存在です。弟は、勘当同然で家を出て以来、音信不通で、他の兄弟も、弟がどこで何をしているかを知らないということであり、いくら調べても連絡が取れないことも想定されます。法定相続人の一人が遺産分割の協議に参加できないということになれば、仮に、他の兄弟との間で合意できても、奥さんに不動産を相続させるという協議が成立せず、不動産の登記をいつまでもできない事態も考えられます。もちろん、遺産分割協議ができないだけでなく、弟による相続放棄も考えられませんから、相続財産の処理が全く進まなくなるような事態も考えられるわけです。
遺言書さえ作成しておけば何の問題もない
このように、子供がいない場合には、兄弟が法定相続人となってしまうことから、遺された奥さんは、様々な困難に直面することになり、最悪の場合、家すら失うことになりかねません。これは、ご相談者にとっては、全く想定外の事態かと思われます。そのようなことが生じないよう、友人の述べるように、遺言書を作成しておかなければならないわけです。
本件では、ご相談者が、奥さんに全財産を相続させる旨の遺言書さえきちんと作成しておけば、兄弟には何らの対抗手段もありません。兄弟には「遺留分」が認められていないからです。
遺留分とは、簡単に言えば、遺産の最低限度の取り分として遺産の一定割合の取得を法が保障したものであり、それに反する内容の遺言書があっても、法定相続人はその最低限の財産を取得できるようになっています(同法1028条)。たとえば、ご相談者が、逆に、奥さんとうまくいっていないと仮定して、自分の財産を奥さんにではなく、第三者にすべて渡そうとしても、奥さんは遺留分として、財産の4分の1(法定相続分の2分の1)を取得する権利がありますから、それまで遺言書で奪うことはできません。
しかし、兄弟には遺留分がないのです。兄弟は法定相続人ではありますが、遺言書によって相続に関する権利を全て奪うことが可能なわけであり、これが実は、本件のような事案でのポイントになるわけです。つまり、ご相談者が、相続財産の全てを奥さんに相続させるという内容の遺言書を作成しておけば、兄弟3人には遺留分がありませんから、遺された奥さんに対して、何らの主張もできなくなるわけです。
したがって、ご相談者が、将来、遺産をめぐる兄弟との紛争に奥さんが巻き込まれることを回避したいのであれば、必ず、遺言書を作成しておくべきということになると思います。
ちなみに、ご相談者のように、兄弟と特殊な関係にある場合ばかりでなく、遺された奥さんと兄弟との間が円満な関係にある場合であっても、遺言書を作成しておくことをお勧めします。いかに円満な関係とはいえ、亡くなった夫の兄弟に対して、相続放棄を求めたり、遺産分割協議書のサインを求めたりするのは手間ですし、通常は気の重い作業です。遺言書さえあれば、そういった作業をすることなく、遺言書だけで遺産の処理を終えることも可能となるからです。
遺言書を作るなら必ず公正証書遺言を
ちなみに、遺言書には、作成者が遺言書の内容全文、日付、氏名を自署し、押印した「自筆証書遺言」という方式もありますが、本件の場合は、公証役場で公証人に依頼して作成してもらう「公正証書遺言」を作成することを検討すべきです。
自筆の遺言書の場合には、第三者が、遺言者の筆跡をまねて作成することも可能ですから、遺言書の内容に対して不満を持つ者は、誰かが、勝手に遺言者の筆跡をまねて作成したものだと主張することが容易にできます。そうなると、本件のように、ご相談者と兄弟とが不仲であり、しかも、非行に走りどこで何をしているかわからない弟がいるような場合、その兄弟が、遺言書は「偽造で無効だ」などと主張して、自分の相続分を主張して争ってくることも考えられます。それに対して、公証人が作成した公正証書遺言の場合には、よほどのことがない限り、無効となることはなく、兄弟が、その無効を主張して争うことも非常に大変です。
なお、公証役場で公正証書遺言を作成するとなると、多大な費用がかかるのではないかと心配されるかもしれませんが、仮に相談者の方の相続財産が全体で1億円程度と仮定しても、実費も入れて5万円程度でおさまります(詳しくは公証役場にお問い合わせ下さい)。その程度の金額で、愛する奥さんが、ほとんど会ったこともないような兄弟たちと、相続を巡ってみにくい争いを繰り広げなくて済むなら安いものだと思います。