賃貸マンション退去時の補修費用、誰が負担?


相談者 KNさん

  • イラストレーション・いわしま ちあき

 壁紙の黒ずみ、床の傷、畳の色落ち……。家族4人で10年間住んだ3LDK、70平方メートルの賃貸マンション。引っ越しの当日、家族の歴史が刻まれた“痕跡”の数々を見ては、喜怒哀楽さまざまな思いが込み上げてきました。車の窓越しに、マンションが遠ざかっていく様に、女房ともども思わず涙ぐんでしまったのです。

 しかし、ノスタルジックな思いに浸っている暇(いとま)はありませんでした。家主が不動産業者を通じ、「10年前の入居時と同じ状態に回復するためのリフォーム費用を払ってほしい」と通告してきたのです。その額20万円。

 「支払い済みの敷金40万円で十分収まるはず。かえっていくらか戻ってくると」と心中ひそかに、期待していました。ところが、戻ってくるどころか、敷金だけでは足りずに、さらに不足分の補修費用を払えというわけです。

 私は、新しく移り住んだマイホームの建築資金で4000万円もの住宅ローンを抱える身であり、20万円というお金は今の私にとってみれば大金です。

 マンションを出て、家を建てることになったのは、そろって傘寿を迎えた両親の面倒をみるためでした。両親の住んでいる都内の実家の土地に2世帯住宅を建てたら、万が一の時にも安心なはず。それに、都内の大学に通っている子どもたちの通学にも便利――と考えたのです。

 以前住んでいた、マンションの家賃は20万円。敷金として2か月分の40万円を入居時に支払っています。

 ファクスで送られてきた、見積書には、リビングのフローリング床の張り替え、和室の畳の張り替え、全部屋の壁紙の張り替え――などのリフォーム項目が列挙されていました。家主の代理人の不動産業者は、今のままでは新しい人に貸すことができないのだから、自分たちが汚した分はすべて負担するべき、と言います。ちなみに、私は賃貸借契約の締結時に、敷金からどのような費用が控除されるかなど、全く説明を受けていません。その点について記載した書面をもらったこともありません。

 たしかに、このマンションに10年も住んでいましたので、さまざまな補修が必要なのかもしれません。しかし、その費用は賃借人である私が負担しなければならないのでしょうか。むしろ、家主は、私から家賃を毎月受領していたのですから、家主側が負担すべきではないでしょうか。(最近の事例を参考に創作したフィクションです)

回答


古くて新しい敷金返還問題

 今回のご相談は、本コーナーの2011年10月26日の回において取りあげた「更新料」と同様に、家を賃借する際に常につきまとう問題です。最近では減ってきたと思いますが、かつては、家主の代理人である不動産業者と退去する賃借人との間でトラブルが多発していました。経年劣化による汚れ等の補修も含めて、必要とされるすべての補修費用を請求し、敷金が全く返還されないとか、ひどい場合には、差し入れている敷金をはるかに超えて追加の支払いを求めてくる、などです。

 「借りるときには畳や壁紙もすべて新品に取り換えられていたのだから、自分が出て行く時にはやはり新品にしなければならない」。退去する賃借人は、このように思いこみ、不動産業者に言われるままに、敷金が戻ってこないことを受け入れてしまうことも多々あったはずです。また、仮に、差し入れた敷金から返金があるはずと思っていても、元々差し入れている敷金はそれほど大きな額ではありません。このため、不動産業者に返還の必要などないと開き直られてしまうと、法的手段に訴える手間や費用を考えて、結局泣き寝入りするということが、かつては多かったと思います。

 現に、以前は、賃借人がいくら不動産業者と交渉しても全く埒(らち)があかなかったのに、弁護士に依頼して内容証明郵便で敷金返還を求めると、意外とあっさり返還に応じるというケースがよくありました。つまり、不動産業者としても、敷金を返還するのが原則、と理解しながらも、弁護士等を立てて強く出てくる人に対しては返還し、そうでない人には返還しないというような姿勢が、時に見受けられたわけです。

 最近では、賃借人の側にも「敷金は本来戻ってくるもの」という意識が浸透しています。敷金の返還がなされない場合には、国民生活センター等のアドバイスを受けてきちんと権利行使をするようになり、不動産業者の多くも、敷金を適正に返還するようになってきているようです。しかし、まだ昔ながらの対応をとる業者も少なからずあるようです。

 それに加えて、最高裁判所が、平成23年3月24日に「敷金は本来戻ってくるもの」という従来の意識を覆す、事実上、賃貸人側に非常に有利と評価できる注目すべき判決を出しており、今後の実務の動向が注目されるところです。

 以下、家を借りる場合に必ず出てくる敷金返還問題について、整理してご説明したいと思います。

何のために敷金を家主に差し入れるのか?

 そもそも、家を借りるときに差し入れている「敷金」とは何でしょうか。

 この点、神戸地方裁判所尼崎支部平成22年11月12日判決は次のように判示しています。

 「敷金とは、一般に、賃貸借契約終了後、目的物の明渡義務履行までに生ずる損害金その他賃貸借契約関係により賃貸人が賃借人に対し取得する一切の債権を担保するものと解される。したがって、目的物明渡しの際、賃貸人は、賃借人に上記債務がないときはその全額を返還し、上記債務があるときはその中から当然弁済に充当した上で残金を返還することになる。」

 賃貸借契約は、あくまで賃借人による賃借物件の使用とその対価としての賃料の支払いを内容とする契約であって(民法第601条)、賃借人が賃料以外の金員の支払いを負担することは賃貸借契約の基本的内容に含まれないことを前提としています。敷金は、賃借人による賃料の不払いなどがあった場合における備えとして、家主に担保として「預けている金銭」にすぎません。建物明け渡しの際に、賃貸人が賃借人に請求すべき債権が何もなければ、基本的には、その「全額」が返還されるのが原則ということです。

原状回復の範囲とは?

 そこで、問題となるのが「原状回復」です。通常、賃貸借契約書の中には、賃貸借契約が終了して物件を明け渡す場合において、賃借人が当該物件を原状回復しなければならない旨の条項が盛り込まれています。つまり、建物の賃貸借契約が終了する場合、「当該建物を原状に復して引き渡す」というのが基本的な考え方であり、この費用については賃借人の負担となることから、それが適正な金額である限りにおいて、上記のように敷金から差し引くことが可能となるわけです。

 しかし、原状回復がどのような状態をいうのかについては必ずしも明らかではなく、賃借人が負担すべき原状回復費用の範囲も不明確な点があります。

 前述のように、最初に借りた時と同じ状態にすることまで、原状回復の内容となり、賃借人の義務とされるとすれば、その金額は非常に高額となり、敷金だけでは到底まかないきれなくなる可能性がでてきます。ご相談者のように、敷金は没収され、さらに費用を請求されるという事態にまでなるわけです。

 そこで、国土交通省は、「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」を公表し、原状回復に関する紛争予防を図っています。同ガイドラインは、平成23年8月に改訂されて、より充実した内容となっており、今回のご質問については、このガイドラインの考え方を前提としてご説明したいと思います。

 まず、ガイドラインは、冒頭において次のように説明しています。
「建物の価値は、居住の有無にかかわらず、時間の経過により減少するものであること、また、物件が、契約により定められた使用方法に従い、かつ、社会通念上通常の使用方法により使用していればそうなったであろう状態であれば、使用開始当時の状態よりも悪くなっていたとしてもそのまま賃貸人に返還すれば良いとすることが学説・判例等の考え方であることから、原状回復は、賃借人が借りた当時の状態に戻すものではないということを明確にし、原状回復を『賃借人の居住、使用により発生した建物価値の減少のうち、賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗・毀損を復旧すること』と定義して、その考え方に沿って基準を策定した。」

 つまり、大原則として、いわゆる経年変化、通常の使用による損耗等の修繕費用は、賃料に含まれるものとし、家主は賃借人にそれを請求できないし、敷金から差し引くこともできないということです。

 家主側は、賃借人の使用に伴って発生した汚れの完全な除去を求めて、その費用を請求してくることがあります。しかし、賃借人側としては上記のように、「原状回復は賃借人が借りた当時の状態に戻すことではない」ことを前提に交渉すべきということです。

 そして、それを前提として、ガイドラインでは、建物の損耗について、以下の区分をしています。

<1> 建物・設備等の自然な劣化・損耗等(経年変化)
<2> 賃借人の通常の使用により生ずる損耗等(通常損耗)
<3> 賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗等

経年変化・通常損耗=家主負担、それ以外=賃借人負担が原則

 まず、発生した建物価値の減少が、<1>や<2>に該当する場合に、その減少分を復旧する費用は、賃貸人が賃料の中に組み込んで受領していると考え、賃借人が負担するものではないとされます。つまり、建物の賃貸借においては、賃借人が社会通念上通常の使用をした場合に生ずる賃借物件の劣化または価値の減少を意味する通常損耗にかかわる投下資本の減価の回収は、通常、減価償却費や修繕費等の必要経費分を賃料の中に含ませて、その支払いを受けることにより行われていると考えられるわけです。

 それに対し、<3>については、賃借人の行為等によって特に損耗してしまった箇所を、居住年数も加味したうえで、通常損耗する程度に復旧する費用は賃借人が負担するということになります。ここで注意すべきは、<3>に該当する損耗であっても、原状回復費用として賃借人が負担するのは、経年変化や通常損耗分の復旧費用分は除くということです。

 ちょっと分かりにくいですが、100の価値のある建物に3年住んだ場合に、経年変化や通常損耗の結果、建物価値が70になるとします。そして、賃借人の行為が付加されて、この価値が50に減少したとすると<3>に区分され、50から70に復旧する費用は賃借人が負担するということです。決して、50から100まで復旧する費用全部を賃借人が負担するわけではありません。

 なお、賃借人が通常の住まい方、使い方をしていても発生するものであっても、その後の手入れなど賃借人の管理が悪く、損耗が発生・拡大したと考えられるものは、損耗の拡大について、賃借人に善管注意義務違反等があると考えられます。その増加分の原状回復費用については賃借人が負担するとされていますので注意が必要です。例えば、クーラーから水漏れしたが、賃借人が放置したため、壁が腐食した場合、腐食した壁を補修する費用は賃借人が負担するといった場合がこれに該当します。

本件ご相談の場合

 ご相談者の場合、10年以上居住しているということで、<1>の経年変化や<2>の通常損耗に区分されるものが少なくないと思われます。

 たとえば、見積書に列挙された、リビングのフローリング床の張り替え、和室の畳の張り替え、全部屋の壁紙の張り替えといったリフォーム項目は、通常、いずれも、賃借人が通常の住まい方、使い方をしていても発生すると考えられるものです。これらは賃貸借契約の性質上、賃貸借契約期間中の賃料でカバーされてきたはずのものと言えます。したがって、賃借人はこれらを修繕するなどの義務を負わず、この場合の費用は賃貸人が負担することになります。

 たとえば、ガイドラインでは、「家具の設置による床、カーペットのへこみ、設置跡」について、「家具保有数が多いという我が国の実状に鑑みその設置は必然的なものであり、設置したことだけによるへこみ、跡は通常の使用による損耗ととらえるのが妥当と考えられる」とコメントされています。同様に、「日照による畳の変色、フローリングの色落ち」についても、「日照は通常の生活で避けられないものであり、賃借人には責任はないと考えられる」とされています。

 さらに、部屋の壁紙の張り替えについては、「テレビ、冷蔵庫等の後部壁面の黒ずみ(いわゆる電気ヤケ)」「壁に貼ったポスターや絵画の跡」「エアコン(賃借人所有)設置による壁のビス穴、跡」「クロスの変色(日照などの自然現象によるもの)」「壁等の画鋲、ピン等の穴(下地ボードの張替えは不要な程度のもの)」などもすべて、賃借人が通常の住まい方、使い方をしていても発生すると考えられるものに分類されています。

 そこで、相談者の方は、まず、原状回復として、どのような補修工事等を行ったのかについて、原状回復費用の負担を求める書面に添付されている明細でのチェックが必要です。そして、ガイドラインと照らし合わせて、賃借人が負担すべきではないと考えられている項目が含まれていないかを確認すべきかと思います。

 そのうえで、賃貸人が負担すべき項目については、その旨を明記した書面等によって、賃貸人、不動産業者等に通知して交渉をすることになります。

 実際の交渉に当たっては、弁護士等の専門家に助力を求めることがよいのですが、費用等の点で難しい場合も考えられます。その場合は、(1)国民生活センター、消費生活センターなど常設の紛争調整機関の利用(2)裁判所での民事調停の申し立て(3)自分で少額訴訟手続き(60万円以下の金銭の支払いを求める場合に限り利用でき、1回の期日で審理を終えて判決することを原則とする特別な訴訟手続き)を利用して訴訟提起――などが対応策として考えられます。

特約について…最高裁判所判決(平成23年3月24日)

 なお、本件ご相談では、敷金について、契約書に何ら特段の規定が置かれていないわけですが、何らかの規定が置かれている場合はどうでしょうか。

 言うまでもなく、賃貸人、賃借人間でどのような契約を締結するのも本来自由であり、一般的な原状回復義務を超えた一定の修繕等の義務を賃借人に負わせることも可能です。ただ、そのようなことを自由に認めたのでは、賃貸人は、契約書の中に、「最初に借りた時と同じ状態に戻すための費用すべてを賃借人が負担する」といった趣旨の規定を入れて、リフォーム費用全額の支払いを賃借人に求めてくる事態になってしまいます。

 この点、最高裁判所平成17年12月16日判決は、「建物の賃借人にその賃貸借において生ずる通常損耗についての原状回復義務を負わせるのは、賃借人に予期しない特別の負担を課すことになるから、賃借人に同義務が認められるためには、少なくとも、賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか、仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には、賃貸人が口頭により説明し、賃借人がその旨を明確に認識し、それを合意の内容としたものと認められるなど、その旨の特約が明確に合意されていることが必要であると解するのが相当である。」と判示しています。

 では、特約で明確に合意さえすればそれでよいのでしょうか。この点につき、平成23年3月24日、最高裁判所が注目すべき判決を出しており、実務に対する影響も大きいと思われますのでご紹介しておきます。

 同判決は、賃貸借契約締結から明け渡しまでの経過期間に応じて18万円ないし34万円のいわゆる敷引金を保証金から控除するという敷引特約(筆者注:建物の賃貸借契約において、敷金名下に賃借人から賃貸人に差し入れられた金員のうち一定額ないし一定割合を控除してこれを賃貸人が取得し、建物明渡し後に残額を賃借人に返還する旨の特約)について、「本件敷引金の額が、契約の経過年数や本件建物の場所、専有面積等に照らし、本件建物に生ずる通常損耗等の補修費用として通常想定される額を大きく超えるものとまではいえない。

 また、本件契約における賃料は月額9万6000円であって、本件敷引金の額は、上記経過年数に応じて上記金額の2倍弱ないし3.5倍強にとどまっていることに加えて、上告人(筆者注:賃借人)は、本件契約が更新される場合に1か月分の賃料相当額の更新料の支払義務を負うほかには、礼金等他の一時金を支払う義務を負っていない。そうすると、本件敷引金の額が高額に過ぎると評価することはできず、本件特約が消費者契約法10条により無効であるということはできない。」と判示しました。

 このように、最高裁判所が、月額賃料の3.5倍程度の敷引金を許容していることからすると、「高額に過ぎる」と評価することができる場合はかなり限定されると思われます。賃貸借契約書において、敷金のうち、賃貸借契約締結から明け渡しまでの経過期間に応じて一定額ないし一定割合を控除してこれを賃貸人が取得する旨を明記する特約は、基本的に有効と考えたほうがよいかと思われます。

 裁判所としては、抽象的に、賃借人が通常損耗の補修義務を負い、退去時にその費用(実費)を支払うベきものとすれば、賃借人にとっては、退去時に自らが負担することとなる補修費用の額について契約時において明確な認識を持つことができず、結果的に退去時に予想外に高額な補修費用を負担させられるおそれがあるのに対して、敷引特約のような場合、賃借人が、自らが負担することとなる金額について、契約締結時に明確な認識を持つことが可能となり、賃借人が予想外の負担を負うことにはならないという点で、両者に違いがあることを重視していると思われます。逆に言えば、そのような特約さえ明記すれば、賃借人に対して容易に通常損耗の補修義務を負わせることができることになるわけで、今後の実務に与える影響は大きいと言えるでしょう。

2012年02月08日 14時59分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

 

 


Copyright © The Yomiuri Shimbun